ただ、我が家の最寄り駅は秩父鉄道の駅のため、あまり頻繁に電車は来ない。
けれど、保育所から家までの帰り道に駅があるため、子どもたちが少しずつおしゃべりできるようになると、「駅に行きたい!」「電車が見たい!」と言って、夕方の駅に寄ることが増えていった。
初めのうちは、電車一本見られるだけで満足していた子どもたちだったけれど、段々と「もっとたくさん見たい!」と言うように――。
しばらく駅で待ち、ようやく一本電車を見送った後に、
「次はいつ来るの?」
「20分後だよ。あの長い針が8にならないと来ないよ」
「じゃあ、待つ!」
「えっ、待つの?」
こんなやりとりを何回しただろう。
特に夕方の20分なんて、私にはとっても貴重な時間。〈早く帰って、夕食の準備をしたい〉とイライラ……。
「もう帰ろう」と促したこともあったが、逆効果。
「絶対、帰らない!」と語気を強める息子。「次の、次の電車も見るから!」
ますます焦り、イライラを募らせる私。
こんな状態になるのが分かっているなら、初めから駅に立ち寄らなければいいのだけれど、根底には「子どもたちを喜ばせたい」という気持ちがある。電車を見ている子どもたちがとても楽しそうだから、私もそれが嬉しくて一緒に駅に行くのだ。でも、時々、子どもたちの気持ちと大人の都合に隔たりが生じてしまう。
せっかく楽しい時間を過ごすつもりだったのがうまくいかなくて、子どもたちにイライラしてしまった自分もイヤになる。
でも、それは閉ざされた部屋の中ではなくて、開かれた駅での出来事だった。毎日のように駅に立ち寄っていると、駅員さんに顔を覚えてもらい、話しかけてもらえるように――。
「よく来たね~」「元気だなぁ」
駅員さんから声をかけてもらい、嬉しそうに笑う息子。照れて返事ができない、恥ずかしがり屋の娘。
三輪車に乗った男の子とママが駅にやって来て、同じように電車を何本か見送っていたこともあった。何度か顔を合わすうちに、自然とお話しするようになり、その男の子も電車が大好きで、お散歩がてらよく電車を見に来ているということを聞いた。同じような子どもがいるママと話せただけで、なんかホッとした。
改札前のベンチに、その男の子と並んで座って、一緒に飴をなめながら電車を待つ子どもたち。そんな姿を見ていたら、自然と「これでいいんだ」と思えた。
今まで私が一生懸命していたことは、どこか空回りだったのかもしれない。「早くご飯を食べさせて、夜の何時までには寝られるようにしなくちゃ……」なんて、毎日気を張ってばかりいたように思う。
ある意味、諦めに近い気持ちだったのかもしれないけれど、「急がなくてもいいや~」と、のんびり駅で過ごす時間の中に、忘れていた大切なものがあるように感じた。
家族でも先生でも会社の同僚でもない人たちとのふれあい。
駅に置いてあるパンフレットや券売機は、大人には見慣れたものでも、子どもたちにとってはすごく心引かれるもの。
「あの紙、電車の写真が出てるから、欲しい!」
「あの機械、どうやって使うの?」
駅から帰るときはいつも、パンフレットやチラシが子どもたちの手に数枚握られていた。
そして、
「次の電車は、いったい何色なんだろう?」
「どっち側から来るんだろう?」
と考えながら待つことの楽しさ。
家の中ではそんなに見つめることのない時計も、ここでは「あとどれくらい待てば、電車に会えるか」を教えてくれる大事な目印。
時には好奇心が抑えきれず、改札を通り抜け駅のホームまで入っていこうとする息子を、追いかけたりもした。特に息子は、離れた踏切の音までよく気づき、「もうすぐ電車が来る!」と興奮状態になることもしばしば。何回見ようと見飽きることはないほど大好きなものに、もうすぐ出会えるというワクワク感。
〈電車を待っている間の20分〉
以前は、私にとっては〈家事ができるはずだったのに、できなかった20分〉だった。
でも、子どもたちにとっては、〈発見や楽しみの詰まった20分〉だったんだ。それに気づいていなかっただけで、本当は私にとっても――。
自分の気持ちに少し余裕が生まれると、新しい視点でものを見られるようになったり、工夫できる点に気づくこともあった。
子どもたちと一緒に、じーっと駅の時刻表の上りと下りを見比べていると、電車の来る間隔が短い時間帯を発見。
「この時間に駅に来られれば、効率よく電車を二本見られる!」
「そのためには、あとちょっとお迎えを早められればいいんだ」
もちろん、それができない場合もあったけれど、そんな日は、「ご飯を手抜きする」とか、「明日は休みだから、寝るのが遅くなっても良し!」とか、自分たち親子それぞれに良い方法をいくつか知っておくだけで、心の負担が軽くなった(気がする)。
「次の電車はしばらく来ないから、今日はお家に帰りな。またおいで」
と、駅員さんの方から助け船を出してくれることも……。駅員さんから言われると、親が言うよりもすんなりと子どもたちが納得してくれた。
そんな風に駅員さんにも成長を見守られながら、少しずつ子どもたちも大きくなっていった。
「貨物列車を運転したい!」とまで言っていた娘は、気が付けば電車好きをすっかり卒業していて、こちらがちょっと寂しくなるくらい……。
息子は電車好きを卒業するどころか、ますます電車への想いが強くなり、最寄り駅だけでは満足できなくなってしまった。「JRも見たい」「新幹線も見たい」「貨物がいっぱいいるところが見たい」と、電車を見に出かける範囲がどんどん広がっている。我が家は車で出かけることが多いため、最近は最寄り駅にはほとんど立ち寄らない。
時々、駅の近くで見かけていた三輪車の男の子とママの姿も、全く見ることがなくなってしまった。三輪車の男の子もまた、成長とともに興味や行動の範囲が広がったのかもしれない。それはとても素敵なことだけれど、ちょっと寂しい気持ちにもなる。
子どもたちは、駅で過ごしたあの時間をいつまで覚えているのだろうか。
子どもの1ヶ月、1年はとても密度が濃く、今を全力で生きているという感じで、少し前のことをすっかり忘れていたりする。それとも、まだ覚えておくには幼すぎたのかな?
過ぎてしまうと、親である私の方が、あの何気ない時間がキラキラしていたような気がして名残惜しい。
子どもたちがまだ駅に立ち寄っていた頃、駅員さんの一人が退職することになった。それを知った子どもたちと私は、その駅員さんの最後の出勤日に、花束を届けに駅に行った。その後、駅員さんからはご丁寧な御礼までいただき、それがご縁で数年経った現在も年賀状のやりとりをしている。
子どもたちがつなげてくれるもの、子どもたちを通して知る世界―― そういうものに今、私の生活は支えられ、彩られているのかもしれない。
著者紹介
- 名前
- 円野こいし
- 性別
- 女
- 年齢
- 昭和生まれ
- 出身
- 東京都
- コメント
- 夫、小2の娘、年長の息子と熊谷に住んでいます。エッセイは初めてですが、子どもたちとの日常を綴っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。